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あしあと

    能楽・まめ知識 ~面塚と観世能楽発祥の地~

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    能楽・まめ知識 ~面塚と観世能楽発祥の地~

    面塚に伝わる伝説

    「室町時代のある日のこと、一天にわかにかき曇り、空中から異様な怪音とともに寺川のほとりに落下物があった。この落下物は、一個の翁の面と一束の葱で、村人は能面をその場にねんごろに葬り、葱はその地に植えたところ見事に生育し、戦前までに『結崎ネブカ』として名物になりました。

     

    観世発祥の地の史実

    観世の発祥は、観阿弥三郎清次が、大和の国の山田猿楽(現在の桜井市山田)から、大和猿楽四座の一つ「結崎座」に加わり、一般大衆にもわかりやすい芸能に変化させ、座名も「結崎座」から「観世座」となりました。

    その後、観阿弥は、結崎に居を定め、世阿弥の出生とともに猿楽から能楽に移行する中で、室町将軍の庇護のもと、不抜の基礎を築き、特に世阿弥が天才的な芸風を持ち、三代将軍義満の寵愛を受けました。観世座は観阿弥、世阿弥親子二代の出現によって能楽完成に偉大な功績を残し、現在の繁栄につながっているといえます。

     

    面塚の概要

    かつては、面塚は少し盛り上がった塚状だったのが、昭和27年にそばを流れる寺川の拡張工事のために塚の場所が現在の寺川南詰めの平地に移設されました。「上島家歳用覚」という書には、天保2年に面塚守としてなにがしかの知行が与えられたことが記されていることから、古くには何かの塚のしるしはあったものと推測されています。

    面積は230平方メートル、周囲の玉垣は全国観世流の門下生から寄与されたもので、樹木を植えるなどして、公園整備がされています。「面塚」の石標とともに、昭和11年に先代宗家左近師の直筆により建立された「観世発祥の地」の碑があります。

     

    面塚

    「面塚」の石標