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あしあと

    3.聖徳太子にちなんだ伝承

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    聖徳太子にちなんだ伝承

    地元の北吐田公民館に「油掛延命地蔵尊濫觴」という文書のレプリカが保管されています。

    この文書は、天保12年(1841年)のもので、油掛地蔵の濫觴(らんしょう/起源)について書かれたものです。原本は油掛地蔵のお堂に掲げられていますが、現在は文字が確認できない状態になっています。


    油掛延命地蔵尊濫觴(意訳・編集)

    神代の昔、神日本磐余彦尊が現れ、大和の国・橿原に都を移し、神武天皇として国を開かれました。その際、現在の吐田は大和の国の「なかば」なので、「半」の字を使って、『半田(はんだ)郷』と名づけられたそうです。

    飛鳥時代になり、聖徳太子が、橘の都(現在の明日香村)から斑鳩へ移動する際に、この半田郷で休憩されました。太子は「何か後世に伝えられるような足跡をこの地に残しましょう」と考え、西の方角に向かって「南無仏、南無仏」と唱えます。すると、不思議なことに、紫色の雲が沸き立ち、花が舞い散る空中から、延命地蔵菩薩が現れました。太子はその姿を彫刻した地蔵像をこの地に安置されました。

    聖徳太子は、橘寺から斑鳩の里まで、『第十八大願』という仏典(お経)を移され、18の辻に霊像を建てられています。そのうちの一つがこの地蔵尊なのではないでしょうか。   

    また、ある時、何日も雨が降り続いて地蔵像が水に浸かってしまいました。それを見た太子は、たいそう嘆き悲しみ涙を流しました。そこで太子は、「地蔵像に油を掛けておくと、水害が起きても水をはじくでしょう。『油掛地蔵尊』として、末代まで祀っていきなさい」「『半田』は由緒がある地名だけど、湿地帯であるため五穀が実らない。この地が水に浸らないようにと『水を吐く』という願を掛けて『吐田(はんだ)』と改めよう」と指示されました。   

    そんなこともあり、油掛地蔵は、いつの時代もあらゆる人々の苦しみや患いを救い、油を掛けて願を掛ければ、速やかに願いがかなうと伝わっています。