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能楽・まめ知識 ~大和猿楽四座と桧垣本猿楽~

[2006年11月2日]

ID:194

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能楽・まめ知識 ~大和猿楽四座と桧垣本猿楽~

猿楽の由来

猿楽というのは奈良時代に中国から伝来した「散楽」がなまって「さるがく」となったといわれています。猿の字をあてたのは平安時代以降のことで、歌舞や曲芸、滑稽な物まねや言葉芸を、宮廷や社寺の祭礼などの余興として演じていました。鎌倉時代に歌舞伎としての能と、台詞劇としての狂言にわかれ、明治になって猿楽と呼ばれるようになりました。

能楽のシテ方には5流あり、そのうち観世(結崎座)、金剛(坂戸座)、宝生(外山座)、金春(円満井座)の4派は猿楽時代から大和四座と呼ばれており、奈良県が発祥の地です。

 

桧垣本猿楽

室町時代には、観世座と古くから関係があった桧垣本猿楽座は、桧垣本(大淀町)に拠点を置きながら春日若宮神社などへ参勤し、桧垣本彦四郎や彦兵衛など彦を通字とする猿楽者がいて、代々笛の名手としてしられていました。伝書「龍吟秘訣」や「笛集」は桧垣本彦四郎ないしは彦兵衛の作とされています。

室町時代の終わりごろには、太鼓の名人、次郎大夫国忠や与左衛門国広父子が活躍していました。特に与左衛門は、織田信長の知遇を得たり、この時代きっての文化人細川幽斎の師匠を務めたりしています。

観世座を通じて中央とも関係をもっていた桧垣本猿楽座ですが、本拠である桧垣本の地を離れることはなく、吉野山天満神社の野際祭の楽頭をつとめるほか、慶長13年(1608年)まで高野山麓の河根丹生神社(和歌山県伊都郡九度山町)で翁舞を舞っていました。

しかし、江戸幕府による大和四座を中心とする統制政策に対応するため、また、自ら研鑚した優れた芸妓を後世に伝えるため、縁戚関係にあった当時の観世大夫ともに一族をあげて江戸に赴き、観世の名字を許され観世座の一員となりました。

一座が江戸に移りその活躍の場をひろげ、芸術性を高める一方で、一座を育てた桧垣本をはじめ吉野では、やがて忘れ去られた存在となっていったのでした・・・